「春哉!!」
ああ、この声。
自信家で、粗野で、無鉄砲で、それこそ単純な男。でも自分を抱いてきたどんな男よりも優しくて。実は人の気持ちの機微に敏感な男だった。さりげない気遣いのできる男だった。だから自分はこの男と共に在ることを望んだ。自分を大事に想ってくれているこの男に。
「春哉、無事か?!」
「!」
見慣れた顔がそこにあった。ふすまを力任せに引っ張り、肩で息をしている。よほど焦っていたのだろうか、土足のまま部屋に踏み込んでいた。
「チッ!」
和泉屋の顔から血の気が引いていた。先ほどの力はどこへやら、春哉から飛び退くと傍の棚から短刀を持ち出し、丸腰の数馬と対峙した。
「数馬さん!」
「俺のモンに何、手ェ出してやがる!春哉、立てるか?!」
あわてて着物をかき合せ、床に落ちた白粉を反射的に拾おうとして屈みこんだ。手にすっぽりとおさまった容器を拾って立とうとしたところ、和泉屋の短刀が目の前に見えた。
「春哉!!」
「動くなっ!」
数馬の「やっぱりかよ」という呟きが耳に入ったが、春哉の頭の中は媚薬のせいでまだ靄がかかったようで、いちいち反応していられるほど心身ともに余裕がなかった。
「動けば春哉も道連れだ。でも、これくらい当然だろう?お前は私の前から一度、春哉を奪ったんだからな」
「モテねェ男の嫉妬ってのは怖いねェ」
「何ぃ?」
軽口を叩いているように見えるが、それはフリだけだ。春哉を人質に取られている以上、数馬も余裕はない。行動を起こすなら春哉だった。
(そうだ、白粉……!)
手の中におさまっている容器を気付かれないように片手で開け、宙にぶちまけた。
「!」
和泉屋が怯んだ隙に春哉が逃れ、入り口に立っている数馬の胸に飛び込んでいた。両手を縛っていた縄を解いてから、数馬の背に匿われた。部屋の中はまだ白粉が舞い、視界が開けなかった。
数馬は視線を部屋の中に向けたまま、背中にかばった春哉に小声でささやいた。
「いいか、春哉。ここを出て賢悟の元へ急げ。この時間なら多分八丁堀の詰所にいるはずだ」
「なんでっ!数馬さんも一緒に!」
「いいから早く!言ったとおりにしろ!」
数馬の見たことのない剣幕に驚いた春哉は、躊躇いながらも飛び出していった。その頃になってようやく部屋の中の視界が開けてきた。
「よう、春哉にフラレた感覚はどうだ?ありゃ結構くるだろ?俺なんか一週間は立ち直れねェな」
「春哉は……春哉は渡さぬ……」
呪文のように繰り返す和泉屋の姿に、数馬は薄気味悪さを感じた。和泉屋はやがて短刀を構えなおし、数馬を見据えた後、一直線に向かってきた。
「……ったくしょうがねェなァ」
数馬は丸腰のまま、慣れた手つきで着物の袖を捲り上げると、その刃が迫るのを待った。